P--1229 P--1230 P--1231 #1蓮如上人御一代記聞書 #2本    蓮如上人御一代記聞書 本 (1) 一、勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰 せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふ は、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまは んずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこ るとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけあり たるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥 陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一 念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。 (2) 一、あさの御つとめに「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より 「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かなら P--1232 ず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光 明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはな けれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。 なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、 北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ 候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、 かぎりなき御ことに候ふ。 (3) 一、御つとめのとき順讃御わすれあり。南殿へ御かへりありて、仰せに、聖人 (親鸞)御すすめの『和讃』、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたり と仰せ候ひき。ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなしと御述懐な り。 (4) 一、念声是一といふことしらずと申し候ふとき、仰せに、おもひ内にあればい ろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりと P--1233 こころうれば、口も心もひとつなり。 (5) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句 に仰せられ候ふ。 (6) 一、仰せに、南無といふは帰命なり、帰命といふは弥陀を一念たのみまゐらす るこころなり。また発願回向といふは、たのむ機にやがて大善・大功徳をあた へたまふなり、その体すなはち南無阿弥陀仏なりと仰せ候ひき。 (7) 一、加賀の願生と覚善又四郎とに対して、信心といふは弥陀を一念御たすけ候 へとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを南無阿弥陀仏と申すなり。総じ て罪はいかほどあるとも、一念の信力にて消しうしなひたまふなり。されば 「無始以来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の妙願力に ほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり」(真要鈔・本) といふ御ことばを引きたまひて仰せ候ひき。さればこのこころを御かけ字にあ P--1234 そばされて、願生にくだされけり。 (8) 一、三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、南無といふは帰命、このこ ころは御たすけ候へとたのむなり。この帰命のこころやがて発願回向のこころ を感ずるなりと仰せられ候ふなり。 (9) 一、「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほださ れて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔)と候ふを、え存ぜず候ふよし申 しあげ候ふところに、仰せに、ききわけてえ信ぜぬもののことなりと仰せられ 候ひき。 (10) 一、「弥陀の大悲、かの常没の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定 鈔・本意)といへること不審に候ふと、福田寺申しあげられ候ふ。仰せに、仏 心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、 法界衆生の身のうちこころのそこに入りみつ」(同)ともあり。しかればただ P--1235 領解の心中をさしてのことなりと仰せ候ひき。ありがたきよし候ふなり。 (11) 一、十月二十八日の逮夜にのたまはく、『正信偈』・『和讃』をよみて、仏にも 聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもし て回向するなり、御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の『和 讃』にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこ ころを、『和讃』にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知し て、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまう すこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。 (12) 一、聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくはいたづらご となり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終ま でとほり候はば往生すべきなり。 (13) 一、明応三年十一月、報恩講の二十四日あかつき八時において、聖人の御前 P--1236 〔に〕参拝申して候ふに、すこしねぶり候ふうちに、ゆめともうつつともわか ず、空善拝みまうし候ふやうは、御厨子のうしろよりわたをつみひろげたるや うなるうちより、上様(蓮如)あらはれ御出であると拝みまうすところに、御 相好、開山聖人(親鸞)にてぞおはします。あら不思議やとおもひ、やがて御 厨子のうちを拝みまうせば、聖人御座なし、さては開山聖人、上様に現じまし まして、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだすべきと存ずるところに、慶 聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫の &M065811;をすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講私記)のうへを讃嘆あると おぼえて夢さめて候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰申すことに 候ひき。 (14) 一、教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかた らば、きくひとも信をとるべし。 (15) 一、仰せに、弥陀をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさよと P--1237 よろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり、すなはち仏恩報 謝なり。 (16) 一、大津近松殿に対しましまして仰せられ候ふ。信心をよく決定して、ひとに もとらせよと仰せられ候ひき。 (17) 一、十二月六日に富田殿へ御下向にて候ふあひだ、五日の夜は大勢御前へまゐ り候ふに、仰せに、今夜はなにごとに人おほくきたりたるぞと。順誓申され候 ふは、まことにこのあひだの御聴聞申し、ありがたさの御礼のため、また明日 御下向にて御座候ふ。御目にかかりまうすべしかのあひだ、歳末の御礼のため ならんと申しあげられけり。そのとき仰せに、無益の歳末の礼かな、歳末の礼 には信心をとりて礼にせよと仰せ候ひき。 (18) 一、仰せに、ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑ひなげくも のあるべし。しかれども、もはや弥陀如来をひとたびたのみまゐらせて往生 P--1238 決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましや、かかる懈怠おほくなる ものなれども、御たすけは治定なり、ありがたやありがたやとよろこぶこころ を、他力大行の催促なりと申すと仰せられ候ふなり。 (19) 一、御たすけありたることのありがたさよと念仏申すべく候ふや、また御た すけあらうずることのありがたさよと念仏申すべく候ふやと、申しあげ候ふと き、仰せに、いづれもよし、ただし正定聚のかたは御たすけありたるとよろ こぶこころ、滅度のさとりのかたは御たすけあらうずることのありがたさよと 申すこころなり。いづれも仏に成ることをよろこぶこころ、よしと仰せ候ふな り。 (20) 一、明応五年正月二十三日に富田殿より御上洛ありて、仰せに、当年よりいよ いよ信心なきひとには御あひあるまじきと、かたく仰せ候ふなり。安心のとほ りいよいよ仰せきかせられて、また誓願寺に能をさせられけり。二月十七日に やがて富田殿へ御下向ありて、三月二十七日に堺殿より御上洛ありて、二十 P--1239 八日に仰せられ候ふ。「自信教人信」(礼讃)のこころを仰せきかせられんがた めに、上り下り辛労なれども御出であるところは、信をとりよろこぶよし申す ほどに、うれしくてまたのぼりたりと仰せられ候ひき。 (21) 一、四月九日に仰せられ候ふ。安心をとりてものをいはばよし、用ないことを ばいふまじきなり、一心のところをばよく人にもいへと、空善に御掟なり。 (22) 一、同じき十二日に堺殿へ御下向あり。 (23) 一、七月二十日御上洛にて、その日仰せられ候ふ。「五濁悪世のわれらこそ  金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」 (高僧和讃・七六)。このつぎをも御法談ありて、この二首の讃のこころをいひ てきかせんとてのぼりたりと仰せ候ふなり。さて自然の浄土にいたるなり、な がく生死をへだてける、さてさてあらおもしろやおもしろやと、くれぐれ御掟 ありけり。 P--1240 (24) 一、のたまはく、「南〓」の字は聖人(親鸞)の御流義にかぎりてあそばしけ り。「南〓阿弥陀仏」を泥にて写させられて、御座敷に掛けさせられて仰せら れけるは、不可思議光仏、無碍光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ徳号な り、しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰せられ候ふなり。 (25) 一、「十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かな はぬほどはしりぬべし」(正像末和讃・四四)。御讃のこころを聴聞申したきと順 誓申しあげられけり。仰せに、諸仏の弥陀に帰せらるるを能としたまへり。 「世のなかにあまのこころをすてよかし 妻うしのつのはさもあらばあれ」と。 これは御開山(親鸞)の御歌なり。さればかたちはいらぬこと、一心を本とす べしとなり。世にも「かうべをそるといへども心をそらず」といふことがある と仰せられ候ふ。 (26) 一、「鳥部野をおもひやるこそあはれなれ ゆかりの人のあととおもへば」。 これも聖人の御歌なり。 P--1241 (27) 一、明応五年九月二十日、御開山(親鸞)の御影様、空善に御免あり、なかな かありがたさ申すにかぎりなきことなり。 (28) 一、同じき十一月報恩講の二十五日に御開山の御伝(御伝鈔)を聖人(親鸞)〔の〕 御前にて上様(蓮如)あそばされて、いろいろ御法談候ふ。なかなかありがた さ申すばかりなく候ふ。 (29) 一、明応六年四月十六日御上洛にて、その日御開山聖人の御影の正本、あつが み一枚につつませ、みづからの御筆にて御座候ふとて、上様御手に御ひろげ候 ひて、皆に拝ませたまへり。この正本、まことに宿善なくては拝見申さぬこと なりと仰せられ候ふ。 (30) 一、のたまはく、「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身 口意を 治せんがためとのべたまふ」(高僧和讃・四四)といふは、諸仏の弥陀 に帰して衆生をたすけらるることよと仰せられ候ふ。 P--1242 (31) 一、一念の信心をえてのちの相続といふは、さらに別のことにあらず、はじめ 発起するところの安心を相続せられてたふとくなる一念のこころのとほるを、 「憶念の心つねに」とも「仏恩報謝」ともいふなり。いよいよ帰命の一念、発 起すること肝要なりと仰せ候ふなり。 (32) 一、のたまはく、朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏申すは、往生のたねにな るべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往 生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人 もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、『正信偈』・『和讃』は、衆生の弥 陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそば されたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞) の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。 (33) 一、南無阿弥陀仏の六字を他宗には大善・大功徳にてあるあひだ、となへて この功徳を諸仏・菩薩・諸天にまゐらせて、その功徳をわがものがほにするな P--1243 り。一流にはさなし。この六字の名号わがものにてありてこそ、となへて仏・ 菩薩にまゐらすべけれ。一念一心に後生たすけたまへとたのめば、やがて御た すけにあづかることのありがたさありがたさと申すばかりなりと仰せ候ふな り。 (34) 一、三河の国浅井の後室、御いとまごひにとてまゐり候ふに、富田殿へ御下向 のあしたのことなれば、ことのほかの御取りみだしにて御座候ふに、仰せに、 名号をただとなへて仏にまゐらするこころにてはゆめゆめなし。弥陀をしか と御たすけ候へとたのみまゐらすれば、やがて仏の御たすけにあづかるを南無 阿弥陀仏と申すなり。しかれば御たすけにあづかりたることのありがたさよあ りがたさよと、こころにおもひまゐらするを、口に出して南無阿弥陀仏南無阿 弥陀仏と申すを、仏恩を報ずるとは申すことなりと仰せ候ひき。 (35) 一、順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚 不退の位に定まると、『御文』にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひ P--1244 だ、罪もあるべしと仰せ候ふ。『御文』と別にきこえまうし候ふやと、申しあ げ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力に て往生定まるときは、罪はさはりともならず、去れば無き分なり、命の娑婆に あらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや、聖 教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるな しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいく たびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしと も、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず、ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。 (36) 一、「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力 の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこ ころもたふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、と やせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふ なり。 P--1245 (37) 一、無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の 生は無生の生といふなり。 (38) 一、回向といふは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいふなりと仰せられ候ふな り。 (39) 一、仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪 消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益な り。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。 (40) 一、仰せに、身をすてておのおのと同座するをば、聖人(親鸞)の仰せにも、 四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくな り。また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかし とねがふばかりなりと仰せられ候ふなり。 P--1246 (41) 一、「愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ば ず、真証の証に近づくことを快しまず」(信巻・末)と申す沙汰に、不審のあつ かひどもにて、往生せんずるか、すまじきなんどとたがひに申しあひけるを、 ものごしにきこしめされて、愛欲も名利もみな煩悩なり、されば機のあつかひ をするは雑修なりと仰せ候ふなり。ただ信ずるほかは別のことなしと仰せられ 候ふ。 (42) 一、ゆふさり案内をも申さず、ひとびとおほくまゐりたるを、美濃殿、まかり いで候へと、あらあらと御申しのところに、仰せに、さやうにいはんことばに て、一念のことをいひてきかせて帰せかしと。東西を走りまはりていひたきこ となりと仰せられ候ふとき、慶聞房涙を流しあやまりて候ふとて讃嘆ありけ り。皆々落涙申すことかぎりなかりけり。 (43) 一、明応六年十一月報恩講に御上洛なく候ふあひだ、法慶坊御使ひとして、当 年は御在国にて御座候ふあひだ、御講をなにと御沙汰あるべきやと、たづね御 P--1247 申し候ふに、当年よりは夕の六つどき、朝の六つどきをかぎりに、みな退散あ るべしとの『御文』をつくらせて、かくのごとくめさるべきよし御掟あり。御 堂の夜の宿衆もその日の頭人ばかりと御掟なり。また上様(蓮如)は七日の御 講のうちを富田殿にて三日御つとめありて、二十四日には大坂殿へ御下向にて 御勤行なり。 (44) 一、同じき七年の夏よりまた御違例にて御座候ふあひだ、五月七日に御いとま ごひに聖人へ御まゐりありたきと仰せられて、御上洛にて、やがて仰せに、信 心なきひとにはあふまじきぞ、信をうるものには召してもみたく候ふ、逢ふべ しと仰せなりと[云々]。 (45) 一、今の人は古をたづぬべし。また古き人は古をよくつたふべし。物語は失 するものなり。書したるものは失せず候ふ。 (46) 一、赤尾の道宗申され候ふ。一日のたしなみには朝つとめにかかさじとたしな P--1248 むべし。一月のたしなみにはちかきところ御開山様(親鸞)の御座候ふところ へまゐるべしとたしなめ、一年のたしなみには御本寺へまゐるべしとたしなむ べしと[云々]。これを円如様きこしめしおよばれ、よく申したると仰せられ候 ふ。 (47) 一、わが心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまる物かとおもへば、信 心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。 (48) 一、法敬坊九十まで存命候ふ。この歳まで聴聞申し候へども、これまでと存知 たることなし、あきたりもなきことなりと申され候ふ。 (49) 一、山科にて御法談の御座候ふとき、あまりにありがたき御掟どもなりとて、 これを忘れまうしてはと存じ、御座敷をたち御堂へ六人よりて談合候へば、面 面にききかへられ候ふ。そのうちに四人はちがひ候ふ。大事のことにて候ふと 申すことなり。聞きまどひあるものなり。 P--1249 (50) 一、蓮如上人の御とき、こころざしの衆も御前におほく候ふとき、このうちに 信をえたるものいくたりあるべきぞ、一人か二人かあるべきか、など御掟候 ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと申され候ふよしに候ふ。 (51) 一、法慶申され候ふ。讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをき けと申され候ふ。詮あるところをきけとなり。 (52) 一、「憶念称名いさみありて」(報恩講私記)とは、称名はいさみの念仏なり、 信のうへはうれしくいさみて申す念仏なり。 (53) 一、『御文』のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところも あり、『御文』は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまり なり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。 (54) 一、御一流の御こと、このとしまで聴聞申し候うて、御ことばをうけたまはり P--1250 候へども、ただ心が御ことばのごとくならずと、法慶申され候ふ。 (55) 一、実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころにまかせずた しなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはちこころにまかせ ずたしなむ心は他力なり。 (56) 一、御一流の義を承りわけたるひとはあれども、聞きうる人はまれなりとい へり。信をうる機まれなりといへる意なり。 (57) 一、蓮如上人の御掟には、仏法のことをいふに、世間のことにとりなす人のみ なり、それを退屈せずして、また仏法のことにとりなせと仰せられ候ふなり。 (58) 一、たれの輩も、われはわろきとおもふもの、一人としてもあるべからず。こ れしかしながら、聖人(親鸞)の御罰をかうぶりたるすがたなり。これにより て一人づつも心中をひるがへさずは、ながき世〔は〕泥梨にふかく沈むべきもの P--1251 なり。これといふもなにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆゑな り。 (59) 一、「皆ひとのまことの信はさらになし ものしりがほの風情にてこそ」。近 松殿の堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候ふ。あとにてこのここ ろをおもひいだし候へと御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」 とは、われはこころえたりとおもふがこのこころなり。 (60) 一、法慶坊、安心のとほりばかり讃嘆するひとなり。「言南無者」(玄義分)の 釈をば、いつもはづさず引く人なり。それさへ、さしよせて申せと、蓮如上人 御掟候ふなり。ことばすくなに安心のとほり申せと御掟なり。 (61) 一、善宗申され候ふ。こころざし申し候ふとき、わがものがほにもちてまゐる ははづかしきよし申され候ふ。なにとしたることにて候ふやと申し候へば、こ れはみな御用のものにてあるを、わがもののやうにもちてまゐると申され候 P--1252 ふ。ただ上様(蓮如)のもの、とりつぎ候ふことにて候ふを、わがものがほに 存ずるかと申され候ふ。 (62) 一、津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき 切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしの あひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。 (63) 一、仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩も かなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。 (64) 一、衆生をしつらひたまふ。「しつらふ」といふは、衆生のこころをそのまま おきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ。衆生のこころをみな とりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ。 (65) 一、わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましきことなり。 P--1253 宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか。 (66) 一、慶聞坊のいはれ候ふ。信はなくてまぎれまはると、日に日に地獄がちかく なる、まぎれまはるがあらはれば地獄がちかくなるなり。うちみは信・不信み えず候ふ。とほく命をもたずして、今日ばかりと思へと、古きこころざしのひ と申され候ふ。 (67) 一、一度のちかひが一期のちかひなり。一度のたしなみが一期のたしなみな り。そのゆゑは、そのまま命をはれば一期のちかひになるによりてなり。 (68) 一、「今日ばかりおもふこころを忘るなよ さなきはいとどのぞみおほきに」 [覚如様御歌] (69) 一、他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像 よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。 P--1254 (70) 一、御本寺北殿にて、法敬坊に対して蓮如上人仰せられ候ふ。われはなにごと をも当機をかがみおぼしめし、十あるものを一つにするやうに、かろがろと理 のやがて叶ふやうに御沙汰候ふ。これを人が考へぬと仰せられ候ふ。『御文』 等をも近年は御ことばすくなにあそばされ候ふ。いまはものを聞くうちにも退 屈し、物を聞きおとすあひだ、肝要のことをやがてしり候ふやうにあそばされ 候ふのよし仰せられ候ふ。 (71) 一、法印兼縁、幼少のとき、二俣にてあまた小名号を申し入れ候ふとき、信心 やある、おのおのと仰せられ候ふ。信心は〔その〕体名号にて候ふ、いま思ひあ はせ候ふとの義に候ふ。 (72) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたる が仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび 仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。 P--1255 (73) 一、蓮如上人へ久宝寺の法性申され候ふは、一念に後生御たすけ候へと弥陀を たのみたてまつり候ふばかりにて往生一定と存じ候ふ、かやうにて御入り候 ふかと申され候へば、ある人わきより、それはいつものことにて候ふ、別のこ と、不審なることなど申され候はでと申され候へば、蓮如上人仰せられ候ふ。 それぞとよ、わろきとは、めづらしきことを聞きたくおもひしりたく思ふな り。信のうへにてはいくたびも心中のおもむき、かやうに申さるべきことなる よし仰せられ候ふ。 (74) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことば にて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなる べき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり。 (75) 一、聖人(親鸞)の御一流は阿弥陀如来の御掟なり。されば『御文』(四の九) には「阿弥陀如来の仰せられけるやうは」とあそばされ候ふ。 P--1256 (76) 一、蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候ふ。いまこの弥陀をたのめといふこ とを御教へ候ふ人をしりたるかと仰せられ候ふ。順誓、存ぜずと申され候ふ。 いま御をしへ候ふ人をいふべし。鍛冶・番匠なども物ををしふるに物を出すも のなり。一大事のことなり、なんぞものをまゐらせよ、いふべきと仰せられ候 ふとき、順誓、なかなかなにたるものなりとも進上いたすべきと申され候ふ。 蓮如上人仰せられ候ふ。このことををしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥 陀如来のわれをたのめとの御をしへにて候ふよし仰せられ候ふ。 (77) 一、法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふ が、六体の仏になりまうし候ふ、不思議なることと申され候へば、前々住上 人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。それは不思議にてもなきなり。仏の仏に御 成り候ふは不思議にてもなく候ふ。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこ そ不思議よと仰せられ候ふなり。 (78) 一、朝夕は如来・聖人(親鸞)の御用にて候ふあひだ、冥加のかたをふかく存 P--1257 ずべきよし、折々前々住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。 (79) 一、前々住上人仰せられ候ふ。「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」といふ ことがあるぞ、妻子を帯し魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思ひの ままにはあるまじきよし仰せられ候ふ。 (80) 一、仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきこと なり。われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候 ふ。他力の御すすめにて候ふ。ゆめゆめわれといふことはあるまじく候ふ。無 我といふこと、前住上人(実如)もたびたび仰せられ候ふ。 (81) 一、日ごろしれるところを善知識にあひて問へば徳分あるなり。しれるところ を問へば徳分あるといへるが殊勝のことばなりと、蓮如上人仰せられ候ふ。知 らざるところを問はばいかほど殊勝なることあるべきと仰せられ候ふ。 P--1258 (82) 一、聴聞を申すも大略わがためとはおもはず、ややもすれば法文の一つをもき きおぼえて、人にうりごころあるとの仰せごとにて候ふ。 (83) 一、一心にたのみたてまつる機は如来のよくしろしめすなり。弥陀のただしろ しめすやうに心中をもつべし。冥加をおそろしく存ずべきことにて候ふとの義 に候ふ。 (84) 一、前住上人(実如)仰せられ候ふ。前々住(蓮如)より御相続の義は別義な きなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほかは別義なく候ふ。これよりほか御存 知なく候ふ。いかやうの御誓言もあるべきよし仰せられ候ふ。 (85) 一、おなじく仰せられ候ふ。凡夫往生ただたのむ一念にて仏に成らぬことあら ば、いかなる御誓言をも仰せらるべき。証拠は南無阿弥陀仏なり。十方の諸 仏、証人にて候ふ。 P--1259 (86) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものは おそろしきと仰せられ候ふ。信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。 物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ 候ふ。 (87) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。仏法はつとめの節はかせもしらでよくすると思ふ なり、つとめの節わろきよしを仰せられ、慶聞坊をいつもとりつめ仰せられつ るよしに候ふ。それにつきて蓮如上人仰せられ候ふ。一向にわろき人は違ひな どといふこともなし、ただわろきまでなり、わろしとも仰せごともなきなり。 法義をもこころにかけ、ちとこころえもあるうへの違ひが、ことのほかの違ひ なりと仰せられ候ふよしに候ふ。 (88) 一、人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふ やうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもと の心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候 P--1260 ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよ しに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、 信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。 (89) 一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、 ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづか ら得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとく こころうべし、そのうへにて師伝・口業はあるべきなり、私にして会釈する ことしかるべからざることなり。 (90) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。他力信心他力信心とみればあやまりな きよし仰せられ候ふ。 (91) 一、わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の 慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。触光 P--1261 柔軟の願(第三十三願)候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は 独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。 (92) 一、一句一言も申すものは、われと思ひて物を申すなり。信のうへはわれはわ ろしと思ひ、また報謝と思ひ、ありがたさのあまりを人にも申すことなるべ し。 (93) 一、信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして 人に物をとらすべきといふの心なり、人承引あるべからずと、前住上人(蓮 如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃)と候ふときは、ま づわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決 定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せ られ候ふ。 (94) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖 P--1262 教よみあり。一文字をもしらねども、人に聖教をよませ聴聞させて信をとら するは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせ ず法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなりと仰せられ候ふ。   自信教人信の道理なりと仰せられ候ふこと。 (95) 一、聖教よみの仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふ とやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮 如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道 などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども名聞が さきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。 (96) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。当流には総体世間機わろし、仏法のうへよりなに ごともあひはたらくべきことなるよし仰せられ候ふと[云々]。 (97) 一、おなじく仰せられ候ふ。世間にて時宜しかるべきはよき人なりといへど P--1263 も、信なくは心をおくべきなり、便りにもならぬなり。たとひ片目つぶれ腰を ひき候ふやうなるものなりとも、信心あらん人をばたのもしく思ふべきなりと 仰せられ候ふ。 (98) 一、君を思ふはわれを思ふなり。善知識の仰せに随ひ信をとれば、極楽へまゐ るものなり。 (99) 一、久遠劫より久しき仏は阿弥陀仏なり。仮に果後の方便によりて誓願をまう けたまふことなり。 (100) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に 身をばまるめたることなりと仰せられ候ふと[云々]。いよいよ冥加を存ずべきの よしに候ふ。 (101) 一、丹後法眼[蓮応]衣装ととのへられ、前々住上人の御前に伺候候ひしと P--1264 き、仰せられ候ふ。衣のえりを御たたきありて、南無阿弥陀仏よと仰せられ候 ふ。また前住上人(実如)は御たたみをたたかれ、南無阿弥陀仏にもたれたる よし仰せられ候ひき。南無阿弥陀仏に身をばまるめたると仰せられ候ふと符合 申し候ふ。 (102) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。仏法のうへには事ごとにつきて空おそ ろしきことと存じ候ふべく候ふ。ただよろづにつきて油断あるまじきことと存 じ候へのよし、折々に仰せられ候ふと[云々]。仏法には明日と申すことあるまじ く候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。 (103) 一、おなじく仰せに、今日の日はあるまじきと思へと仰せられ候ふ。なにごと もかきいそぎて物を御沙汰候ふよしに候ふ。ながながしたることを御嫌ひのよ しに候ふ。仏法のうへには、明日のことを今日するやうにいそぎたること、賞 翫なり。 P--1265 (104) 一、おなじく仰せにいはく、聖人(親鸞)の御影を申すは大事のことなり。昔 は御本尊よりほかは御座なきことなり。信なくはかならず御罰を蒙るべきよし 仰せられ候ふ。 (105) 一、時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到 来とはいふべし、無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞 を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはま ることなるよし仰せのよし候ふ。 (106) 一、前々住上人(蓮如)法敬に対して仰せられ候ふ。まきたてといふもの知り たるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬもの に候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり、人に直さ れまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは心得の直る ことあるべからず、まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ [云々]。 P--1266 (107) 一、何ともして人に直され候ふやうに心中を持つべし。わが心中をば同行のな かへ打ちいだしておくべし。下としたる人のいふことをば用ゐずしてかならず 腹立するなり、あさましきことなり。ただ人に直さるるやうに心中を持つべき 義に候ふ。 (108) 一、人の、前々住上人(蓮如)へ申され候ふ。一念の処決定にて候ふ。やや もすれば善知識の御ことばをおろそかに存じ候ふよし申され候へば、仰せられ 候ふは、もつとも信のうへは崇仰の心あるべきなり、さりながら凡夫の心にて は、かやうの心中のおこらんときは勿体なきこととおもひすつべしと仰せられ しと[云々]。 (109) 一、蓮如上人、兼縁に対せられ仰せられ候ふ。たとひ木の皮をきるいろめなり とも、なわびそ、ただ弥陀をたのむ一念をよろこぶべきよし仰せられ候ふ。 (110) 一、前々住上人仰せられ候ふ。上下老若によらず、後生は油断にてしそんず P--1267 べきのよし仰せられ候ふ。 (111) 一、前々住上人(蓮如)御口のうち御煩ひ候ふに、をりふし御目をふさがれ、 ああ、と仰せられ候ふ。人の信なきことを思ふことは、身をきりさくやうにか なしきよと仰せられ候ふよしに候ふ。 (112) 一、おなじく仰せに、われは人の機をかがみ人にしたがひて仏法を御聞かせ候 ふよし仰せられ候ふ。いかにも人のすきたることなど申させられ、うれしやと 存じ候ふところに、また仏法のことを仰せられ候ふ。いろいろ御方便にて人に 法を御聞かせ候ひつるよしに候ふ。 (113) 一、前々住上人仰せられ候ふ。人々の仏法を信じてわれによろこばせんと思 へり、それはわろし、信をとれば自身の勝徳なり、さりながら信をとらば恩に も御うけあるべきと仰せられ候ふ。また、聞きたくもなきことなりともまこと に信をとるべきならば、きこしめすべきよし仰せられ候ふ。 P--1268 (114) 一、おなじく仰せに、まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨て よ。それはすたらぬと仰せられ候ふ。 (115) 一、あるとき仰せられ候ふ。御門徒の心得を直すときこしめして、老の皺をの べ候ふと仰せられ候ふ。 (116) 一、ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく存 ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され法義を心にかけら れ候ふ、一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。そのとき仰せられ 候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ。 (117) 一、をかしき事態をもさせられ、仏法に退屈仕り候ふものの心をもくつろげ、 その気をも失はして、またあたらしく法を仰せられ候ふ。まことに善巧方便、 ありがたきことなり。 P--1269 (118) 一、天王寺土塔会、前々住上人(蓮如)御覧候ひて仰せられ候ふ。あれほどの おほき人ども地獄へおつべしと、不便に思し召し候ふよし仰せられ候ふ。また そのなかに御門徒の人は仏に成るべしと仰せられ候ふ。これまたありがたき仰 せにて候ふ。 蓮如上人御一代聞書 本 P--1270 #2末    蓮如上人御一代聞書 末 (119) 一、前々住上人(蓮如)御法談以後、四五人の御兄弟へ仰せられ候ふ。四五人 の衆寄合ひ談合せよ、かならず五人は五人ながら意巧にきくものなるあひだ、 よくよく談合すべきのよし仰せられ候ふ。 (120) 一、たとひなきことなりとも、人申し候はば、当座領掌すべし。当座に詞を返 せば、ふたたびいはざるなり。人のいふことをばただふかく用心すべきなり。 これにつきてある人、あひたがひにあしきことを申すべしと、契約候ひしとこ ろに、すなはち一人のあしきさまなること申しければ、われはさやうに存ぜざ れども人の申すあひださやうに候ふと申す。さればこの返答あしきとのことに 候ふ。さなきことなりとも、当座はさぞと申すべきことなり。 P--1271 (121) 一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはな く候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修 正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。 (122) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人は あり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐ らんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候 ふ。 (123) 一、聖教をすきこしらへもちたる人の子孫には、仏法者いでくるものなり。 ひとたび仏法をたしなみ候ふ人は、おほやうなれどもおどろきやすきなり。 (124) 一、『御文』は如来の直説なりと存ずべきのよしに候ふ。形をみれば法然、詞 を聞けば弥陀の直説といへり。 P--1272 (125) 一、蓮如上人御病中に、慶聞に、なんぞ物をよめと仰せられ候ふとき、『御文』 をよみまうすべきかと申され候ふ。さらばよみまうせと仰せられ候ふ。三通二 度づつ六遍よませられて仰せられ候ふ。わがつくりたるものなれども殊勝なる よと仰せられ候ふ。 (126) 一、順誓申されしと[云々]。常にはわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹 立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、 かげにてなりともわがわろきことを申されよ、聞きて心中をなほすべきよし申 され候ふ。 (127) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。仏法のためと思し召し候へば、なにた る御辛労をも御辛労とは思し召されぬよし仰せられ候ふ。御心まめにてなに ごとも御沙汰候ふよしなり。 (128) 一、法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、仏法には微細 P--1273 に心をもち、こまかに心をはこぶべきよし仰せられ候ふ。 (129) 一、とほきはちかき道理、ちかきはとほき道理あり。灯台もとくらしとて、仏 法を不断聴聞申す身は、御用を厚くかうぶりて、いつものことと思ひ、法義に おろそかなり。とほく候ふ人は、仏法をききたく大切にもとむるこころありけ り。仏法は大切にもとむるよりきくものなり。 (130) 一、ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあ るべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞 申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。 (131) 一、道宗は、ただ一つ御詞をいつも聴聞申すが初めたるやうにありがたきよし 申され候ふ。 (132) 一、念仏申すも、人の名聞げにおもはれんと思ひてたしなむが大儀なるよし、 P--1274 ある人申され候ふ。常の人の心中にかはり候ふこと。 (133) 一、同行同侶の目をはぢて冥慮をおそれず。ただ冥見をおそろしく存ずべき ことなり。 (134) 一、たとひ正義たりとも、しげからんことをば停止すべきよし候ふ。まして世 間の儀停止候はぬことしかるべからず。いよいよ増長すべきは信心にて候ふ。 (135) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。仏法にはまゐらせ心わろし。これをして御心に叶 はんと思ふ心なり。仏法のうへはなにごとも報謝と存ずべきなりと[云々]。 (136) 一、人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心をうばふ。これは諸 行のことなり。念仏はしからず。仏智の心をうるゆゑに、貪・瞋・痴の煩悩を ば仏の方より刹那に消したまふなり。ゆゑに「貪瞋煩悩中 能生清浄願往 生心」(散善義)といへり。『正信偈』には、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無 P--1275 闇」といへり。 (137) 一、一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよくきき、心中 のとほりを同行にあひ談合すべきことなりと[云々]。 (138) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。神にも仏にも馴れては、手ですべきこ とを足にてするぞと仰せられける。如来・聖人(親鸞)・善知識にも馴れまうす ほど御こころやすく思ふなり。馴れまうすほどいよいよ渇仰の心をふかくはこ ぶべきこともつともなるよし、仰せられ候ふ。 (139) 一、口と身のはたらきとは似するものなり。心根がよくなりがたきものなり。 涯分心の方を嗜みまうすべきことなりと[云々]。 (140) 一、衣装等にいたるまで、わが物と思ひ踏みたたくることあさましきことな り。ことごとく聖人の御用物にて候ふあひだ、前々住上人はめし物など御足 P--1276 にあたり候へば、御いただき候ふよし承りおよび候ふ。 (141) 一、王法は額にあてよ、仏法は内心にふかく蓄へよとの仰せに候ふ。仁義とい ふことも、端正あるべきことなるよしに候ふ。 (142) 一、蓮如上人御若年のころ、御迷惑のことにて候ひし。ただ御代にて仏法を 仰せたてられんと思し召し候ふ御念力一つにて御繁昌候ふ。御辛労ゆゑに候 ふ。 (143) 一、御病中に蓮如上人仰せられ候ふ。御代に仏法を是非とも御再興あらんと 思し召し候ふ御念力一つにて、かやうにいままでみなみな心やすくあること は、この法師が冥加に叶ふによりてのことなりと御自讃ありと[云々]。 (144) 一、前々住上人(蓮如)は、昔はこぶくめをめされ候ふ。白小袖とて御心やす く召され候ふ御ことも御座なく候ふよしに候ふ。いろいろ御かなしかりけるこ P--1277 とども、折々御物語り候ふ。今々のものはさやうのことを承り候ひて、冥加 を存ずべきのよしくれぐれ仰せられ候ふ。 (145) 一、よろづ御迷惑にて、油をめされ候はんにも御用脚なく、やうやう京の黒木 をすこしづつ御とり候ひて、聖教など御覧候ふよしに候ふ。また少々は月の 光にても聖教をあそばされ候ふ。御足をもたいがい水にて御洗ひ候ふ。また 二三日も御膳まゐり候はぬことも候ふよし、承りおよび候ふ。 (146) 一、人をもかひがひしく召しつかはれ候はであるうへは、幼童のむつきをもひ とり御洗ひ候ふなどと仰せられ候ふ。 (147) 一、存如上人召しつかはれ候ふ小者を、御雇ひ候ひて召しつかはれ候ふよしに 候ふ。存如上人は人を五人召しつかはれ候ふ。蓮如上人御隠居のときも五人召 しつかはれ候ふ。当時は御用とて心のままなること、そらおそろしく、身もい たくかなしく存ずべきことにて候ふ。 P--1278 (148) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。昔は仏前に伺候の人は、本は紙絹に輻 をさし着候ふ。いまは白小袖にて、結句きがへを所持候ふ。これそのころは禁 裏にも御迷惑にて、質をおかれて御用にさせられ候ふと、引きごとに御沙汰候 ふ。 (149) 一、また仰せられ候ふ。御貧しく候ひて、京にて古き綿を御とり候ひて、御一 人ひろげ候ふことあり。また御衣はかたの破れたるをめされ候ふ。白き御小袖 は美濃絹のわろきをもとめ、やうやう一つめされ候ふよし仰せられ候ふ。当時 はかやうのことをもしり候はで、あるべきやうにみなみな存じ候ふほどに、冥 加につきまうすべし。一大事なり。 (150) 一、同行・善知識にはよくよくちかづくべし。「親近せざるは雑修の失なり」 と『礼讃』にあらはせり。あしきものにちかづけば、それには馴れじと思へど も、悪事よりよりにあり。ただ仏法者には馴れちかづくべきよし仰せられ候 ふ。俗典にいはく、「人の善悪は近づき習ふによる」と、また「その人をしら P--1279 んとおもはば、その友をみよ」といへり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友 とすることなかれ」といふことあり。 (151) 一、「きればいよいよかたく、仰げばいよいよたかし」といふことあり。物を きりてみてかたきとしるなり。本願を信じて殊勝なるほどもしるなり。信心お こりぬればたふとくありがたく、よろこびも増長あるなり。 (152) 一、凡夫の身にて後生たすかることは、ただ易きとばかり思へり。「難中之難」 (大経・下)とあれば、堅くおこしがたき信なれども、仏智より得やすく成就し たまふことなり。「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきにあらず」(執持 鈔・二)といへり。前住上人(実如)仰せに、後生一大事と存ずる人には御同 心あるべきよし仰せられ候ふと[云々]。 (153) 一、仏説に信・謗あるべきよし説きおきたまへり。信ずるものばかりにて謗ずる 人なくは、説きおきたまふこといかがとも思ふべきに、はや謗ずるものあるう P--1280 へは、信ぜんにおいてはかならず往生決定との仰せに候ふ。 (154) 一、同行のまへにてはよろこぶものなり、これ名聞なり。信のうへは一人居て よろこぶ法なり。 (155) 一、仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきや うに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよ しの仰せに候ふ。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名 をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそ ばされ候ふ。 (156) 一、法敬申され候ふと[云々]。人寄合ひ、雑談ありしなかばに、ある人ふと座敷 を立たれ候ふ。上人いかにと仰せければ、一大事の急用ありとて立たれけり。 そののち、先日はいかにふと立たれ候ふやと問ひければ、申され候ふ。仏法の 物語、約束申したるあひだ、あるもあられずしてまかりたち候ふよし申され候 P--1281 ふ。法義にはかやうにぞ心をかけ候ふべきことなるよし申され候ふ。 (157) 一、仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間 のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。 (158) 一、前々住上人(蓮如)、南殿にて存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふ を、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。 名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり、これが名誉なりと仰せら れ候ふなり。 (159) 一、前々住上人へある人申され候ふ、開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。 これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬ ことなり、なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御 沙汰候ふと仰せられ候ふ。 P--1282 (160) 一、総体人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふ なり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて 情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。 (161) 一、一心とは、弥陀をたのめば如来の仏心とひとつになしたまふがゆゑに、一 心といへり。 (162) 一、ある人申され候ふと[云々]。われは井の水を飲むも、仏法の御用なれば、水 の一口も如来・聖人(親鸞)の御用と存じ候ふよし申され候ふ。 (163) 一、蓮如上人御病中に仰せられ候ふ。御自身なにごとも思し召し立ち候ふこ との、成りゆくほどのことはあれども、成らずといふことなし。人の信なきこ とばかりかなしく御なげきは思し召しのよし仰せられ候ふ。 (164) 一、おなじく仰せに、なにごとをも思し召すままに御沙汰あり。聖人の御一流 P--1283 をも御再興候ひて、本堂・御影堂をもたてられ、御住持をも御相続ありて、 大坂殿を御建立ありて御隠居候ふ。しかれば、われは「功成り名遂げて身退く は天の道なり」(老子)といふこと、それ御身のうへなるべきよし仰せられ候ふ と。 (165) 一、敵の陣に火をともすを、火にてなきとは思はず。いかなる人なりとも、御 ことばのとほりを申し、御詞をよみまうさば、信仰し、承るべきことなり と。 (166) 一、蓮如上人、折々仰せられ候ふ。仏法の義をばよくよく人に問へ、物をば人 によく問ひまうせのよし仰せられ候ふ。たれに問ひまうすべきよしうかがひま うしければ、仏法だにもあらば、上下をいはず問ふべし、仏法はしりさうもな きものが知るぞと仰せられ候ふと[云々]。 (167) 一、蓮如上人、無紋のものを着ることを御きらひ候ふ。殊勝さうにみゆるとの P--1284 仰せに候ふ。また、墨の黒き衣を着候ふを御きらひ候ふ。墨の黒き衣を着て御 所へまゐれば仰せられ候ふ。衣紋ただしき殊勝の御僧の御出で候ふと、仰せら れ候ひて、いやわれは殊勝にもなし、ただ弥陀の本願殊勝なるよし仰せられ候 ふ。 (168) 一、大坂殿にて紋のある御小袖をさせられ、御座のうへに掛けられておかれ候 ふよしに候ふ。 (169) 一、御膳まゐり候ふときには、御合掌ありて、如来・聖人(親鸞)の御用にて 衣食ふよと仰せられ候ふ。 (170) 一、人はあがりあがりておちばをしらぬなり。ただつつしみて不断そらおそろ しきことと、事ごとにつけて心をもつべきのよし仰せられ候ふ。 (171) 一、往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることな P--1285 り。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰 せ候ひき。 (172) 一、大坂殿にて、ある人、前々住上人(蓮如)に申され候ふ。今朝暁より老 いたるものにて候ふがまゐられ候ふ、神変なることなるよし申され候へば、や がて仰せられ候ふ。信だにあれば辛労とはおもはぬなり。信のうへは仏恩報謝 と存じ候へば、苦労とは思はぬなりと仰せられしと[云々]。老者と申すは田上の 了宗なりと[云々]。 (173) 一、南殿にて人々寄合ひ、心中をなにかとあつかひまうすところへ、前々住 上人御出で候ひて仰せられ候ふ。なにごとをいふぞ、ただなにごとのあつかひ も思ひすてて、一心に弥陀を疑なくたのむばかりにて、往生は仏のかたより 定めましますぞ。その証は南無阿弥陀仏よ、このうへはなにごとをかあつかふ べきぞと仰せられ候ふ。もし不審などを申すにも、多事をただ御一言にてはら りと不審はれ候ひしと[云々]。 P--1286 (174) 一、前々住上人(蓮如)、「おどろかすかひこそなけれ村雀 耳なれぬればな るこにぞのる」、この歌を御引きありて折々仰せられ候ふ。ただ人はみな耳な れ雀なりと仰せられしと[云々]。 (175) 一、心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなき なりと仰せられ候ふ。 (176) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便 をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善 巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。 (177) 一、『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうへに法門あるべきやうに 思ふ人あり。大きなる誤りなりと[云々]。 (178) 一、信のうへは仏恩の称名退転あるまじきことなり。あるいは心よりたふと P--1287 くありがたく存ずるをば仏恩と思ひ、ただ念仏の申され候ふをば、それほどに 思はざること、大きなる誤りなり。おのづから念仏の申され候ふこそ、仏智の 御もよほし仏恩の称名なれと仰せごとに候ふ。 (179) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふ と申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんど とて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。 そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ[云々]。 (180) 一、ある人いはく、前々住上人(蓮如)の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を 殺し候ふに、思ひよらず念仏申され候ふ。そのときなにと思うて念仏をば申し たると仰せられ候へば、ただ、かわいやと存ずるばかりにて申し候ふと申され ければ、仰せられ候ふは、信のうへはなにともあれ、念仏申すは報謝の義と存 ずべし、みな仏恩になると仰せられ候ふ。 P--1288 (181) 一、南殿にて、前々住上人(蓮如)、のうれんを打ちあげられて御出で候ふと て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と仰せられ候ひて、法敬この心しりたるかと仰 せられ候ふ。なにとも存ぜずと申され候へば、仰せられ候ふ。これはわれは御 たすけ候ふ、御うれしやたふとやと申す心よと仰せられ候ふ[云々]。 (182) 一、蓮如上人へ、ある人安心のとほり申され候ふ。[西国の人と云々]安心の一通 りを申され候へば、仰せられ候ふ。申し候ふごとくの心中に候はば、それが肝 要と仰せられ候ふ。 (183) 一、おなじく仰せられ候ふ。当時ことばにては安心のとほりおなじやうに申さ れ候ひし。しかれば信治定の人に紛れて、往生をしそんずべきことをかなしく 思し召し候ふよし仰せられ候ふ。 (184) 一、信のうへはさのみわろきことはあるまじく候ふ。あるいは人のいひ候ふな どとて、あしきことなどはあるまじく候ふ。今度生死の結句をきりて、安楽に P--1289 生ぜんと思はん人、いかんとしてあしきさまなることをすべきやと仰せられ候 ふ。 (185) 一、仰せにいはく、仏法をばさしよせていへいへと仰せられ候ふ。法敬に対し 仰せられ候ふ。信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり、信心・ 安心などいへば、別のやうにも思ふなり、ただ凡夫の仏に成ることををしふべ し、後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりと も、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法門はなきなりと仰せら れ候ふ。『安心決定鈔』(本)にいはく、「浄土の法門は、第十八の願をよくよ くこころうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば『御文』(五・一)には 「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりともか ならず弥陀如来はすくひましますべし、これすなはち第十八の念仏往生の誓願 の意なり」といへり。 (186) 一、信をとらぬによりてわろきぞ、ただ信をとれと仰せられ候ふ。善知識の P--1290 わろきと仰せられけるは、信のなきことをわろきと仰せらるるなり。しかれば 前々住上人(蓮如)、ある人を、言語道断わろきと仰せられ候ふところに、そ の人申され候ふ。なにごとも御意のごとくと存じ候ふと申され候へば、仰せら れ候ふ。ふつとわろきなり、信のなきはわろくはなきかと仰せられ候ふと[云 云]。 (187) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。なにたることをきこしめしても、御心にはゆめゆ め叶はざるなりと、一人なりとも人の信をとりたることをきこしめしたきと、 御ひとりごとに仰せられ候ふ。御一生は人に信をとらせたく思し召され候ふよ し仰せられ候ふ。 (188) 一、聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむとい ふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことを しらざりき。しかれば前々住上人の御代に、『御文』を御作り候ひて、「雑 行をすてて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」(五・九)と、あきらかに P--1291 しらせられ候ふ。しかれば御再興の上人にてましますものなり。 (189) 一、よきことをしたるがわろきことあり、わろきことをしたるがよきことあ り。よきことをしても、われは法義につきてよきことをしたると思ひ、われと いふことあればわろきなり。あしきことをしても、心中をひるがへし本願に帰 すれば、わろきことをしたるがよき道理になるよし仰せられ候ふ。しかれば蓮 如上人は、まゐらせ心がわろきと仰せらるると[云々]。 (190) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。思ひよらぬものが分に過ぎて物を出し 候はば、一子細あるべきと思ふべし。わがこころならひに人よりものを出せば うれしく思ふほどに、なんぞ用をいふべきときは、人がさやうにするなりと仰 せられ候ふ。 (191) 一、行くさきむかひばかりみてあしもとをみねば、踏みかぶるべきなり。人の うへばかりみて、わが身のうへのことをたしなまずは一大事たるべきと仰せら P--1292 れ候ふ。 (192) 一、善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきこと なり。成らざることなりとも仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が 仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば、道宗、 近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せ にて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。 (193) 一、「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿 つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あ り。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、 信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。 (194) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。信決定の人をみて、あのごとくならで はと思へばなるぞと仰せられ候ふ。あのごとくになりてこそと思ひすつるこ P--1293 と、あさましきことなり。仏法には身をすててのぞみもとむる心より、信をば 得ることなりと[云々]。 (195) 一、人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざる ものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身に しられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用 すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ。 (196) 一、世間の物語ある座敷にては、結句法義のことをいふこともあり、さやうの 段は人なみたるべし。心には油断あるべからず。あるいは講談、または仏法の 讃嘆などいふとき、一向に物をいはざること大きなる違ひなり。仏法讃嘆とあ らんときは、いかにも心中をのこさず、あひたがひに信・不信の義、談合申す べきことなりと[云々]。 (197) 一、金森の善従に、ある人申され候ふ。このあひださこそ徒然に御入り候ひつ P--1294 らんと申しければ、善従申され候ふ。わが身は八十にあまるまで徒然といふこ とをしらず。そのゆゑは、弥陀の御恩のありがたきほどを存じ、和讃・聖教 等を拝見申し候へば、心おもしろくもまたたふときこと充満するゆゑに、徒然 なることもさらになく候ふと申され候ふよしに候ふ。 (198) 一、善従申され候ふとて、前住上人(実如)仰せられ候ふ。ある人、善従の宿 所へ行き候ふところに、履をも脱ぎ候はぬに、仏法のこと申しかけられ候ふ。 またある人申され候ふは、履をさへぬがれ候はぬに、いそぎかやうにはなにと て仰せ候ふぞと、人申しければ、善従申され候ふは、出づる息は入るをまたぬ 浮世なり、もし履をぬがれぬまに死去候はば、いかが候ふべきと申され候ふ。 ただ仏法のことをば、さし急ぎ申すべきのよし仰せられ候ふ。 (199) 一、前々住上人(蓮如)、善従のことを仰せられ候ふ。いまだ野村殿御坊、そ の沙汰もなきとき、神無森をとほり国へ下向のとき、輿よりおりられ候ひて、 野村殿の方をさして、このとほりにて仏法がひらけまうすべしと申され候ひ P--1295 し。人々、これは年よりてかやうのことを申され候ふなど申しければ、つひに 御坊御建立にて御繁昌候ふ、不思議のことと仰せられ候ひき。また善従は法 然の化身なりと、世上に人申しつると、おなじく仰せられ候ひき。かの往生は 八月二十五日にて候ふ。 (200) 一、前々住上人(蓮如)東山を御出で候ひて、いづかたに御座候ふとも人存ぜ ず候ひしに、この善従あなたこなた尋ねまうされければ、ある所にて御目にか かられ候ふ。一段御迷惑の体にて候ひつるあひだ、前々住上人にもさだめて 善従かなしまれまうすべきと思し召され候へば、善従御目にかかられ、あらあ りがたや、はや仏法はひらけまうすべきよと申され候ふ。つひにこの詞符合 候ふ。善従は不思議の人なりと、蓮如上人仰せられ候ひしよし、上人(実如) 仰せられ候ひき。 (201) 一、前住上人(実如)、先年大永三、蓮如上人二十五年の三月始めごろ、御夢 御覧候ふ。御堂上壇南の方に前々住上人御座候ひて、紫の御小袖をめされ P--1296 候ふ。前住上人(実如)へ対しまゐらせられ、仰せられ候ふ。仏法は讃嘆・談 合にきはまる、よくよく讃嘆すべきよし仰せられ候ふ。まことに夢想ともいふ べきことなりと仰せられ候ひき。しかればその年、ことに讃嘆を肝要と仰せら れ候ふ。それにつきて仰せられ候ふは、仏法は一人居て悦ぶ法なり、一人居て さへたふときに、まして二人寄合はばいかほどありがたかるべき。仏法をばた だ、寄合ひ寄合ひ談合申せのよし仰せられ候ふなり。 (202) 一、心中を改め候はんと申す人、なにをかまづ改め候はんと申され候ふ。よろ づわろきことを改めてと、かやうに仰せられ候ふ。いろをたて、きはを立て申 しいでて改むべきことなりと[云々]。なににてもあれ、人の直さるるをききて、 われも直るべきと思うて、わがとがを申しいださぬは、直らぬぞと仰せられ候 ふと[云々]。 (203) 一、仏法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆゑなり。わが心にたくみ案じて 申すべきやうに思へり、よそなる物をたづねいだすやうなり。心にうれしきこ P--1297 とはそのままなるものなり、寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心のとほり をいふなり。仏法の座敷にて物を申さぬことは、不信のゆゑなり。また油断と いふことも信のうへのことなるべし。細々同行に寄合ひ讃嘆申さば、油断はあ るまじきのよしに候ふ。 (204) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。一心決定のうへ、弥陀の御たすけあり たりといふは、さとりのかたにしてわろし。たのむところにてたすけたまひ候 ふことは歴然に候へども、御たすけあらうずというてしかるべきのよし仰せら れ候ふ[云々]。一念帰命のとき、不退の位に住す。これ不退の密益なり、これ涅 槃分なるよし仰せられ候ふと[云々]。 (205) 一、徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈 誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれど もしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておき たまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候 P--1298 ふ。 (206) 一、前々住上人(蓮如)御病中に、兼誉・兼縁御前に伺候して、あるとき尋 ねまうされ候ふ。冥加といふことはなにとしたることにて候ふと申せば、仰 せられ候ふ。冥加に叶ふといふは弥陀をたのむことなるよし仰せられ候ふと [云々]。 (207) 一、人に仏法のことを申してよろこばれば、われはそのよろこぶ人よりもな ほたふとく思ふべきなり。仏智をつたへまうすによりて、かやうに存ぜられ候 ふことと思ひて、仏智の御方をありがたく存ぜらるべしとの義に候ふ。 (208) 一、『御文』をよみて人に聴聞させんとも、報謝と存ずべし。一句一言も信の うへより申せば人の信用もあり、また報謝ともなるなり。 (209) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。弥陀の光明は、たとへばぬれたる物をほすに、う P--1299 へよりひて、したまでひるごとくなることなり。これは日の力なり。決定の心 おこるは、これすなはち他力の御所作なり。罪障はことごとく弥陀の御消しあ ることなるよし仰せられ候ふと[云々]。 (210) 一、信心治定の人はたれによらず、まづみればすなはちたふとくなり候ふ。こ れその人のたふときにあらず、仏智をえらるるがゆゑなれば、弥陀仏智のあり がたきほどを存ずべきことなりと[云々]。 (211) 一、蓮如上人御病中のとき仰せられ候ふ。御自身なにごとも思し召しのこさ るることなしと。ただ御兄弟のうち、その外たれにも信のなきをかなしく思し 召し候ふ。世間にはよみぢのさはりといふことあり、われにおいては往生すと もそれなし。ただ信のなきこと、これを歎かしく思し召し候ふと仰せられ候ふ と。 (212) 一、蓮如上人あるいは人に御酒をも下され、物をも下されて、かやうのことど P--1300 もありがたく存ぜさせ近づけさせられ候ひて、仏法を御きかせ候ふ。さればか やうに物を下され候ふことも、信をとらせらるべきためと思し召せば、報謝と 思し召し候ふよし仰せられ候ふと[云々]。 (213) 一、おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得 たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるな り。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば 『口伝鈔』(四)にいはく、「されば、この機のうへにたもつところの弥陀の仏 智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (214) 一、加州菅生の願生、坊主の聖教をよまれ候ふをききて、聖教は殊勝に候へ ども、信が御入りなく候ふあひだ、たふとくも御入りなきと申され候ふ。この ことを前々住上人(蓮如)きこしめし、蓮智をめしのぼせられ、御前にて不断 聖教をもよませられ、法義のことをも仰せきかせられて、願生に仰せられ候 ふ。蓮智に聖教をもよみならはせ、仏法のことをも仰せきかせられ候ふよし P--1301 仰せられ候ひて、国へ御下し候ふ。そののちは聖教をよまれ候へば、いまこ そ殊勝に候へとて、ありがたがられ候ふよしに候ふ。 (215) 一、蓮如上人、幼少なるものには、まづ物をよめと仰せられ候ふ。またそのの ちは、いかによむとも復せずは詮あるべからざるよし仰せられ候ふ。ちと物に 心もつき候へば、いかに物をよみ声をよくよみしりたるとも、義理をわきまへ てこそと仰せられ候ふ。そののちは、いかに文釈を覚えたりとも、信がなくは いたづらごとよと仰せられ候ふ。 (216) 一、心中のとほり、ある人法敬坊に申され候ふ。御詞のごとくは覚悟仕り候 へども、ただ油断・不沙汰にて、あさましきことのみに候ふと申され候ふ。そ のとき法敬坊申され候ふ。それは御詞のごとくにてはなく候ふ。勿体なき申さ れごとに候ふ。御詞には、油断・不沙汰なせそとこそ、あそばされ候へと申さ れ候ふと[云々]。 P--1302 (217) 一、法敬坊に、ある人不審申され候ふ。これほど仏法に御心をも入れられ候ふ 法敬坊の尼公の不信なる、いかがの義に候ふよし申され候へば、法敬坊申され 候ふ。不審さることなれども、これほど朝夕『御文』をよみ候ふに、驚きまう さぬ心中が、なにか法敬が申し分にて聞きいれ候ふべきと申され候ふと[云々]。 (218) 一、順誓申され候ふ。仏法の物語申すに、かげにて申し候ふ段は、なにたるわ ろきことをか申すべきと存じ、脇より汗たりまうし候ふ。前々住上人(蓮如) 聞し召すところにて申すときは、わろきことをばやがて御なほしあるべきと存 じ候ふあひだ、心安く存じ候ひて、物をも申され候ふよしに候ふ。 (219) 一、前々住上人仰せられ候ふ。不審と一向しらぬとは各別なり。知らぬこと をも不審と申すこと、いはれなく候ふ。物を分別して、あれはなにと、これは いかがなどいふやうなることが不審にて候ふ。子細もしらずして申すことを不 審と申しまぎらかし候ふよし仰せられ候ふ。 P--1303 (220) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。御本寺・御坊をば聖人(親鸞)御存生 のときのやうに思し召され候ふ。御自身は御留主を当座御沙汰候ふ。しかれど も御恩を御忘れ候ふことはなく候ふと、御斎の御法談に仰せられ候ひき。御斎 を御受用候ふあひだにも、すこしも御忘れ候ふことは御入りなきと仰せられ候 ふ。 (221) 一、善如上人・綽如上人両御代のこと、前住上人(実如)仰せられ候ふこ と、両御代は威儀を本に御沙汰候ひしよし仰せられし。しかればいまに御影に 御入り候ふよし仰せられ候ふ、黄袈裟・黄衣にて候ふ。しかれば前々住上人 の御時、あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候 ふ。この二幅の御影をも焼かせらるべきにて御取りいだし候ひつるが、いかが 思し召し候ひつるやらん、表紙に書付を「よし・わろし」とあそばされて、と りておかせられ候ふ。このことをいま御思案候へば、御代のうちさへかやうに 御違ひ候ふ。ましていはんやわれら式のものは違ひたるべきあひだ、一大事と 存じつつしめよとの御ことに候ふ。いま思し召しあはせられ候ふよし仰せられ P--1304 候ふなり。また「よし・わろし」とあそばされ候ふこと、わろしとばかりあそ ばし候へば、先代の御ことにて候へばと思し召し、かやうにあそばされ候ふこ とに候ふと仰せられ候ふ。また前々住上人(蓮如)の御時、あまた昵近のかた がた違ひまうすこと候ふ。いよいよ一大事の仏法のことをば心をとどめて細々 人に問ひ心得まうすべきのよし仰せられ候ふ。 (222) 一、仏法者のすこしの違ひを見ては、あのうへさへかやうに候ふとおもひ、わ が身をふかく嗜むべきことなり。しかるを、あのうへさへ御違ひ候ふ、ま してわれらは違ひ候はではと思ふこころ、おほきなるあさましきことなりと [云々]。 (223) 一、仏恩を嗜むと仰せ候ふこと、世間の物を嗜むなどといふやうなることにて はなし。信のうへにたふとくありがたく存じよろこびまうす透間に懈怠申すと き、かかる広大の御恩をわすれまうすことのあさましさよと、仏智にたちかへ りて、ありがたやたふとやと思へば、御もよほしにより念仏を申すなり。嗜む P--1305 とはこれなるよしの義に候ふ。 (224) 一、仏法に厭足なければ法の不思議をきくといへり。前住上人(実如)仰せら れ候ふ。たとへば世上にわがすきこのむことをばしりてもしりても、なほよく しりたう思ふに、人に問ひ、いくたびも数奇たることをば聞きても聞きても、 よくききたく思ふ。仏法のこともいくたび聞きてもあかぬことなり。しりても しりても存じたきことなり。法義をば幾度も幾度も人に問ひきはめまうすべき ことなるよし仰せられ候ふ。 (225) 一、世間へつかふことは、仏の物をいたづらにすることよと、おそろしく思ふ べし。さりながら仏法の方へはいかほど物を入れてもあかぬ道理なり。また報 謝にもなるべしと[云々]。 (226) 一、人の辛労もせで徳をとる上品は、弥陀をたのみて仏に成るにすぎたること なしと仰せられ候ふと[云々]。 P--1306 (227) 一、皆人ごとによきことをいひもし、働きもすることあれば、真俗ともにそれ を、わがよきものにはやなりて、その心にて御恩といふことはうちわすれて、 わがこころ本になるによりて、冥加につきて、世間・仏法ともに悪しき心がか ならずかならず出来するなり、一大事なりと[云々]。 (228) 一、堺にて兼縁、前々住上人(蓮如)へ『御文』を御申し候ふ。そのとき仰せ られ候ふ。年もより候ふに、むつかしきことを申し候ふ。まづわろきことをい ふよと仰せられ候ふ。後に仰せられ候ふは、ただ仏法を信ぜば、いかほどなり ともあそばしてしかるべきよし仰せられしと[云々]。 (229) 一、おなじく堺の御坊にて、前々住上人、夜更けて蝋燭をともさせ、名号を あそばされ候ふ。そのとき仰せられ候ふ。御老体にて御手も振ひ、御目もかす み候へども、明日越中へ下り候ふと申し候ふほどに、かやうにあそばされ候 ふ。辛労をかへりみられずあそばされ候ふと仰せられ候ふ。しかれば御門徒の ために御身をばすてられ候ふ。人に辛労をもさせ候はで、ただ信をとらせたく P--1307 思し召し候ふよし仰せられ候ふ。 (230) 一、重宝の珍物を調へ経営をしてもてなせども、食せざればその詮なし。同行 寄合ひ讃嘆すれども、信をとる人なければ、珍物を食せざるとおなじことなり と[云々]。 (231) 一、物にあくことはあれども、仏に成ることと弥陀の御恩を喜ぶとは、あきた ることはなし。焼くとも失せもせぬ重宝は、南無阿弥陀仏なり。しかれば弥陀 の広大の御慈悲殊勝なり、信ある人を見るさへたふとし。よくよくの御慈悲な りと[云々]。 (232) 一、信決定の人は、仏法の方へは身をかろくもつべし。仏法の御恩をばおもく うやまふべしと[云々]。 (233) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善あ P--1308 りがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。 (234) 一、他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善とい ふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑ に、弥陀の教をば弘教ともいふなり。 (235) 一、法門をば申すには、当流のこころは信心の一義を申し披き立てたる、肝要 なりと[云々]。 (236) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。仏法者には法の威力にて成るなり、威 力でなくは成るべからずと仰せられ候ふ。されば仏法をば学匠・物しりはいひ たてず。ただ一文不知の身も、信ある人は仏智を加へらるるゆゑに、仏力にて 候ふあひだ、人が信をとるなり。このゆゑに聖教よみとて、しかもわれはと 思はん人の、仏法をいひたてたることなしと仰せられ候ふことに候ふ。ただな にしらねども、信心定得の人は仏よりいはせらるるあひだ、人が信をとるとの P--1309 仰せに候ふ。 (237) 一、弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成ると いふは信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀 仏、これ一念の信心なりと[云々]。 (238) 一、一流真宗のうちにて法をそしり、わろさまにいふ人あり。これを思ふに、 他門・他宗のことは是非なし、一宗のうちにかやうの人もあるに、われら宿善 ありてこの法を信ずる身のたふとさよと思ふべしと[云々]。 (239) 一、前々住上人(蓮如)には、なにたるものをもあはれみかはゆく思し召し候 ふ。大罪人とて人を殺し候ふこと、一段御悲しみ候ふ。存命もあらば心中を直 すべしと仰せられ候ひて、御勘気候ひても、心中をだにも直り候へば、やがて 御宥免候ふと[云々]。 P--1310 (240) 一、安芸の蓮崇、国をくつがへし、くせごとにつきて、御門徒をはなされ候 ふ。前々住上人(蓮如)御病中に御寺内へまゐり御詫言申し候へども、とり つぎ候ふ人なく候ひし。その折節、前々住上人ふと仰せられ候ふ。安芸をな ほさうと思ふよと仰せられ候ふ。御兄弟以下御申すには、一度仏法にあだをな しまうす人にて候へば、いかがと御申し候へば、仰せられ候ふ。それぞとよ、 あさましきことをいふぞとよ、心中だに直らば、なにたるものなりとも、御も らしなきことに候ふと仰せられ候ひて、御赦免候ひき。そのとき御前へまゐ り、御目にかかられ候ふとき、感涙畳にうかび候ふと[云々]。しかうして御中陰 のうちに蓮崇も寺内にてすぎられ候ふ。 (241) 一、奥州に御一流のことを申しまぎらかし候ふ人をきこしめして、前々住上 人奥州の浄祐を御覧候ひて、もつてのほか御腹立候ひて、さてさて開山聖人 (親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、 御歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候ふ と[云々]。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞと仰せられ候ふと[云々]。 P--1311 (242) 一、思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることは なし。この御思案の道理に同心せば仏に成るべし、同心とて別になし、機法一 体の道理なりと[云々]。 (243) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。御身一生涯御沙汰候ふこと、みな仏法にて、御方 便・御調法候ひて、人に信を御とらせあるべき御ことわりにて候ふよし仰せ られ候ふ[云々]。 (244) 一、おなじく御病中に仰せられ候ふ。いまわがいふことは金言なり、かまへ てかまへて、よく意得よと仰せられ候ふ。また御詠歌のこと、三十一字につづ くることにてこそあれ、これは法門にてあるぞと仰せられ候ふと[云々]。 (245) 一、「愚者三人に智者一人」とて、なにごとも談合すれば面白きことあるぞ と、前々住上人(蓮如)、前住上人(実如)へ御申し候ふ。これまた仏法がた にはいよいよ肝要の御金言なりと[云々]。 P--1312 (246) 一、蓮如上人順誓に対し仰せられ候ふ。法敬とわれとは兄弟よと仰せられ候 ふ。法敬申され候ふ。これは冥加もなき御ことと申され候ふ。蓮如上人仰せら れ候ふ。信をえつれば、さきに生るるものは兄、後に生るるものは弟よ、法 敬とは兄弟よと仰せられ候ふ。「仏恩を一同にうれば、信心一致のうへは四海 みな兄弟」(論註・下意)といへり。 (247) 一、南殿山水の御縁の床のうへにて、蓮如上人仰せられ候ふ。物は思ひたる より大きにちがふといふは、極楽へまゐりてのことなるべし。ここにてありが たやたふとやと思ふは、物の数にてもなきなり。かの土へ生じての歓喜は、こ とのはもあるべからずと仰せられしと。 (248) 一、人はそらごと申さじと嗜むを、随分とこそ思へ。心に偽りあらじと嗜む人 は、さのみ多くはなきものなり。またよきことはならぬまでも、世間・仏法と もに心にかけ嗜みたきことなりと[云々]。 P--1313 (249) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があ ひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやう なる聖教なりと仰せられ候ふ。 (250) 一、大坂殿にておのおのへ対せられ仰せられ候ふ。このあひだ申ししことは 『安心決定鈔』のかたはしを仰せられ候ふよしに候ふ。しかれば、当流の義 は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰せられ候ふと[云々]。 (251) 一、法敬申され候ふ。たふとむ人よりたふとがる人ぞたふとかりけると。前々 住上人仰せられ候ふ。面白きことをいふよ、たふとむ体、殊勝ぶりする人は たふとくもなし、ただありがたやとたふとがる人こそたふとけれ。面白きこと をいふよ、もつとものことを申され候ふとの仰せごとに候ふと[云々]。 (252) 一、文亀三、正月十五日の夜、兼縁夢にいはく、前々住上人、兼縁へ御問ひ ありて仰せられ候ふやう、いたづらにあることあさましく思し召し候へば、稽 P--1314 古かたがたせめて一巻の経をも、日に一度、みなみな寄合ひてよみまうせと仰 せられけりと[云々]。あまりに人のむなしく月日を送り候ふことを悲しく思し召 し候ふゆゑの義に候ふ。 (253) 一、おなじく夢にいはく、同年の極月二十八日の夜、前々住上人(蓮如)、御 袈裟・衣にて襖障子をあけられ御出で候ふあひだ、御法談聴聞申すべき心に て候ふところに、ついたち障子のやうなる物に『御文』の御詞御入れ候ふをよ みまうすを御覧じて、それはなんぞと御尋ね候ふあひだ、『御文』にて候ふよ し申し上げ候へば、それこそ肝要、信仰してきけと仰せられけりと[云々]。 (254) 一、おなじく夢にいはく、翌年極月二十九日夜、前々住上人仰せられ候ふや うは、家をばよく作られて、信心をよくとり念仏申すべきよし、かたく仰せら れ候ひけりと[云々]。 (255) 一、おなじく夢にいはく、近年、大永三、正月一日の夜の夢にいはく、野村殿 P--1315 南殿にて前々住上人(蓮如)仰せにいはく、仏法のこといろいろ仰せられ候 ひてのち、田舎には雑行雑修あるを、かたく申しつくべしと仰せられ候ふと [云々]。 (256) 一、おなじく夢にいはく、大永六、正月五日夜、夢に前々住上人仰せられ候 ふ。一大事にて候ふ。今の時分がよきときにて候ふ。ここをとりはづしては一 大事と仰せられ候ふ。畏まりたりと御うけ御申し候へば、ただその畏まりたる といふにてはなく候ふまじく候ふ。ただ一大事にて候ふよし仰せられ候ひしと [云々]。  つぎの夜、夢にいはく、蓮誓仰せ候ふ。吉崎〔にて〕前々住上人に当流の肝要 のことを習ひまうし候ふ。一流の依用なき聖教やなんどをひろくみて、御流 をひがざまにとりなし候ふこと候ふ。幸ひに肝要を抜き候ふ聖教候ふ。これ が一流の秘極なりと、吉崎にて前々住上人に習ひまうし候ふと、蓮誓仰せら れ候ひしと[云々]。  わたくしにいはく、夢等をしるすこと、前々住上人世を去りたまへば、い P--1316 まはその一言をも大切に存じ候へば、かやうに夢に入りて仰せ候ふことの金言 なること、まことの仰せとも存ずるまま、これをしるすものなり。まことにこ れは夢想とも申すべきことどもにて候ふ。総体、夢は妄想なり、さりながら、 権者のうへには瑞夢とてあることなり。なほもつてかやうの金言のことばはし るすべしと[云々]。 (257) 一、仏恩がたふとく候ふなどと申すは聞きにくく候ふ、聊爾なり。仏恩をあり がたく存ずと申せば、莫大聞きよく候ふよし仰せられ候ふと[云々]。『御文』が と申すも聊爾なり。『御文』を聴聞申して『御文』ありがたしと申してよきよ しに候ふ。仏法の方をばいかほども尊敬申すべきことと[云々]。 (258) 一、仏法の讃嘆のとき、同行をかたがたと申すは平懐なり。御方々と申してよ きよし仰せごとと[云々]。 (259) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。家をつくり候ふとも、つぶりだにぬれ P--1317 ずは、なにともかともつくるべし。万事過分なることを御きらひ候ふ。衣装等 にいたるまでも、よきもの着んと思ふはあさましきことなり。冥加を存じ、た だ仏法を心にかけよと仰せられ候ふ[云々]。 (260) 一、おなじく仰せられ候ふ。いかやうの人にて候ふとも、仏法の家に奉公申し 候はば、昨日までは他宗にて候ふとも、今日ははや仏法の御用とこころうべく 候ふ。たとひあきなひをするとも、仏法の御用と心得べきと仰せられ候ふ。 (261) 一、おなじく仰せにいはく、雨もふり、また炎天の時分は、つとめながながし く仕り候はで、はやく仕りて人をたたせ候ふがよく候ふよし仰せられ候ふ。 これも御慈悲にて人々を御いたはり候ふ。大慈大悲の御あはれみに候ふ。つね づねの仰せには、御身は人に御したがひ候ひて、仏法を御すすめ候ふと仰せら れ候ふ。御門徒の身にて御意のごとくならざること、なかなかあさましきこと ども、なかなか申すもことおろかに候ふとの義に候ふ。 P--1318 (262) 一、将軍家[義尚]よりの義にて、加州一国の一揆、御門徒を放さるべきとの義 にて、加州居住候ふ御兄弟衆をもめしのぼせられ候ふ。そのとき前々住上 人(蓮如)仰せられ候ふ。加州の衆を門徒放すべきと仰せいだされ候ふこと、 御身をきらるるよりもかなしく思し召し候ふ。なにごとをもしらざる尼入道 の類のことまで思し召さば、なにとも御迷惑このことに極まるよし仰せられ候 ふ。御門徒をやぶらるると申すことは、一段、善知識の御うへにてもかなしく 思し召し候ふことに候ふ。 (263) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。御門徒衆のはじめて物をまゐらせ候ふを、他宗に 出し候ふ義あしく候ふ。一度も二度も受用せしめ候ひて、出し候ひてしかるべ きのよし仰せられ候ふ。かくのごとくの子細は存じもよらぬことにて候ふ。い よいよ仏法の御用、御恩をおろそかに存ずべきことにてはなく候ふ。驚き入り 候ふとのことに候ふ。 (264) 一、法敬坊、大坂殿へ下られ候ふところに、前々住上人仰せられ候ふ。御往 P--1319 生候ふとも十年は生くべしと仰せられ候ふところに、なにかと申され、おし かへし、生くべしと仰せられ候ふところ、御往生ありて一年存命候ふところ に、法敬にある人仰せられ候ふは、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふにあひま うしたるよ、そのゆゑは、一年も存命候ふは命を前々住上人より御あたへ候 ふことにて候ふと仰せ候へば、まことにさにて御入り候ふとて、手をあはせ、 ありがたきよしを申され候ふ。それよりのち、前々住上人仰せられ候ふごと く十年存命候ふ。まことに冥加に叶はれ候ふ。不思議なる人にて候ふ。 (265) 一、事ごと無用なることを仕り候ふ義、冥加なきよし、条々、いつも仰せら れ候ふよしに候ふ。 (266) 一、蓮如上人、物をきこしめし候ふにも、如来・聖人(親鸞)の御恩にてまし まし候ふを御忘れなしと仰せられ候ふ。一口きこしめしても思し召しいだされ 候ふよし仰せられ候ふと[云々]。 P--1320 (267) 一、御膳を御覧じても、人の食はぬ飯を食ふことよと思し召し候ふと仰せられ 候ふ。物をすぐにきこしめすことなし、ただ御恩のたふときことをのみ思し召 し候ふと仰せられ候ふ。 (268) 一、享禄二年十二月十八日の夜、兼縁夢に、蓮如上人『御文』をあそばし下さ れ候ふ、その御詞に、梅干のたとへ候ふ。梅干のことをいへば、みな人の口一 同に酸し。一味の安心はかやうにあるべきなり。「同一念仏無別道故」(論註・ 下)の心にて候ひつるやうにおぼえ候ふと[云々]。 (269) 一、仏法を好かざるがゆゑに嗜み候はずと、空善申され候へば、蓮如上人仰せ られ候ふ。それは、好まぬは嫌ふにてはなきかと仰せられ候ふと[云々]。 (270) 一、不法の人は仏法を違例にすると仰せられ候ふ。仏法の御讃嘆あれば、あら 気づまりや、疾くはてよかしと思ふは、違例にするにてはなきかと仰せられ候 ふと[云々]。 P--1321 (271) 一、前住様(実如)御病中、正月二十四日に仰せられ候ふ。前々住(蓮如)の 早々われに来いと、左の御手にて御まねき候ふ、あらありがたやと、くりかへ しくりかへし仰せられ候ひて、御念仏御申し候ふほどに、おのおの御心たがひ 候ひて、かやうにも仰せ候ふと存じ候へば、その義にてはなくして、御まどろ み候ふ御夢に御覧ぜられ候ふよし仰せられ候ふところにて、みなみな安堵候ひ き。これまたあらたなる御事なりと[云々]。 (272) 一、おなじき二十五日、兼誉・兼縁に対せられ仰せられ候ふ。前々住上人(蓮 如)御世を譲りあそばされて以来のことども、種々仰せられ候ふ。御一身の御 安心のとほり仰せられ、一念に弥陀をたのみまうして往生は一定と思し召され 候ふ。それにつきて前住上人(蓮如)の御恩にて、今日までわれと思ふ心をも ち候はぬがうれしく候ふと仰せられ候ふ。まことにありがたくも、または驚き いりまうし候ふ。われ、人、かやうに心得まうしてこそは、他力の信心決定申 したるにてはあるべく候ふ。いよいよ一大事の御ことに候ふ。 P--1322 (273) 一、『嘆徳の文』に、親鸞聖人と申せば、その恐れあるゆゑに、祖師聖人と よみ候ふ。また開山聖人とよみまうすも、おそれある子細にて御入り候ふと [云々]。 (274) 一、ただ「聖人」と直に申せば聊爾なり。「この聖人」と申すも聊爾か。「開 山」とは略しては申すべきかとのことに候ふ。ただ「開山聖人」と申してよく 候ふと[云々]。 (275) 一、『嘆徳の文』に、「以て弘誓に託す」と申すことを、「以て」を抜きては よまず候ふと[云々]。 (276) 一、蓮如上人、堺の御坊に御座のとき、兼誉御まゐり候ふ。御堂において卓の うへに『御文』をおかせられて、一人二人[乃至]五人十人まゐられ候ふ人々に 対し、『御文』をよませられ候ふ。その夜、蓮如上人御物語りのとき仰せられ 候ふ。このあひだ面白きことを思ひいだして候ふ。つねに『御文』を一人なり P--1323 とも来らん人にもよませてきかせば、有縁の人は信をとるべし。このあひだ面 白きことを思案しいだしたると、くれぐれ仰せられ候ふ。さて『御文』肝要の 御ことと、いよいよしられ候ふとのことと仰せられ候ふなり。 (277) 一、今生のことを心に入るるほど、仏法を心腹に入れたきことにて候ふと、人 申し候へば、世間に対様して申すことは大様なり、ただ仏法をふかくよろこぶ べしと[云々]。またいはく、一日一日に仏法はたしなみ候ふべし、一期とおもへ ば大儀なりと、人申され候ふ。またいはく、大儀なると思ふは不足なり、人と して命はいかほどもながく候ひても、あかずよろこぶべきことなりと[云々]。 (278) 一、坊主は人をさへ勧化せられ候ふに、わが身を勧化せられぬはあさましきこ となりと[云々]。 (279) 一、道宗、前々住上人(蓮如)へ『御文』申され候へば、仰せられ候ふ。文は とりおとし候ふことも候ふほどに、ただ心に信をだにもとり候へば、おとし候 P--1324 はぬよし、仰せられ候ひし。またあくる年、あそばされて、下され候ふ。 (280) 一、法敬坊申され候ふ。仏法をかたるに、志の人をまへにおきて語り候へ ば、力がありて申しよきよし申され候ふ。 (281) 一、信もなくて大事の聖教を所持の人は、をさなきものに剣を持たせ候ふや うに思し召し候ふ。そのゆゑは、剣は重宝なれども、をさなきもの持ち候へ ば、手を切り怪我をするなり。持ちてよく候ふ人は重宝になるなりと[云々]。 (282) 一、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。ただいまなりとも、われ、死ねといは ば、死ぬるものはあるべく候ふが、信をとるものはあるまじきと仰せられ候ふ と[云々]。 (283) 一、前々住上人、大坂殿にておのおのに対せられて仰せられ候ふ。一念に凡 夫の往生をとぐることは秘事・秘伝にてはなきかと仰せられ候ふと[云々]。 P--1325 (284) 一、御普請・御造作のとき、法敬申され候ふ。なにも不思議に、御眺望等も御 上手に御座候ふよし申され候へば、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。われは なほ不思議なることを知る、凡夫の仏に成り候ふことを知りたると仰せられ候 ふと。 (285) 一、蓮如上人、善従に御かけ字をあそばされて下され候ふ。そののち善従に御 尋ね候ふ。以前書きつかはし候ふ物をばなにとしたると仰せられ候ふ。善従 申され候ふ。表補絵仕り候ひて、箱に入れ置きまうし候ふよし申され候ふ。 そのとき仰せられ候ふ。それはわけもなきことをしたるよ、不断かけておき て、そのごとく心ねなせよといふことでこそあれと仰せられ候ふ。 (286) 一、おなじく仰せにいはく、これの内に居て聴聞申す身は、とりはづしたらば 仏に成らんよと仰せられ候ふと[云々]。ありがたき仰せに候ふ。 (287) 一、仰せにいはく、坊主衆等に対せられ、仰せられ候ふ。坊主といふものは大 P--1326 罪人なりと仰せられ候ふ。そのときみなみな迷惑申され候ふ。さて仰せられ候 ふ。罪がふかければこそ阿弥陀如来は御たすけあれと仰せられ候ふと[云々]。 (288) 一、毎日毎日に『御文』の御金言を聴聞させられ候ふことは、宝を御賜り候ふ ことに候ふと[云々]。 (289) 一、開山聖人(親鸞)の御代、高田の[二代]顕智上洛のとき、申され候ふ。今 度はすでに御目にかかるまじきと存じ候ふところに、不思議に御目にかかり候 ふと申され候へば、それはいかにと仰せられ候ふ。舟路に難風にあひ、迷惑 仕り候ふよし申され候ふ。聖人仰せられ候ふ。それならば船には乗らるまじ きものをと仰せられ候ふ。そののち、御詞の末にて候ふとて、一期、舟に乗ら れず候ふ。また茸に酔ひまうされ、御目に遅くかかられ候ひしときも、かく のごとく仰せられしとて、一期受用なく候ひしと[云々]。かやうに仰せを信じ、 ちがへまうすまじきと存ぜられ候ふこと、まことにありがたき殊勝の覚悟との 義に候ふ。 P--1327 (290) 一、身あたたかなれば眠気さし候ふ、あさましきことなり。その覚悟にて身を もすずしくもち、眠りをさますべきなり。身随意なれば、仏法・世法ともにお こたり、無沙汰油断あり。この義一大事なりと[云々]。 (291) 一、信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐべきなり。触 光柔軟の願(第三十三願)あり。また信なければ、我になりて詞もあらく、諍ひ もかならず出でくるものなり。あさましあさまし、よくよくこころうべしと [云々]。 (292) 一、前々住上人(蓮如)、北国のさる御門徒のことを仰せられ候ふ。なにとし てひさしく上洛なきぞと仰せられ候ふ。御前の人申され候ふ。さる御方の御折 檻候ふと申され候ふ。そのとき御機嫌もつてのほか悪しく候ひて、仰せられ候 ふ。開山聖人(親鸞)の御門徒をさやうにいふものはあるべからず。御身一人 聊爾には思し召さぬものを、なにたるものがいふべきとも、とくとくのぼれと いへと仰せられ候ふと[云々]。 P--1328 (293) 一、前住上人仰せられ候ふ。御門徒衆をあしく申すことゆめゆめあるまじき なり。開山(親鸞)は御同行・御同朋と御かしづき候ふに、聊爾に存ずるはく せごとのよし仰せられ候ふ。 (294) 一、開山聖人の一大事の御客人と申すは、御門徒衆のことなりと仰せられしと [云々]。 (295) 一、御門徒衆上洛候へば、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。寒天には御酒 等のかんをよくさせられて、路次の寒さをも忘られ候ふやうにと仰せられ候 ふ。また炎天のときは、酒など冷せと仰せられ候ふ。御詞をくはへられ候ふ。 また、御門徒の上洛候ふを、遅く申し入れ候ふことくせごとと仰せられ候ふ。 御門徒をまたせ、おそく対面することくせごとのよし仰せられ候ふと[云々]。 (296) 一、万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨 てたるは御恩なり。捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なりと[云々]。 P--1329 (297) 一、前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣のしたにて御拝み候ふ。 また仏の物と思し召し候へば、御自身の召し物までも、御足にあたり候へば、 御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)よりの御あたへと思 し召し候ふと仰せられ候ふと[云々]。 (298) 一、仏法には、万かなしきにも、かなはぬにつけても、なにごとにつけても、 後生のたすかるべきことを思へば、よろこびおほきは仏恩なりと[云々]。 (299) 一、仏法者になれ近づきて、損は一つもなし。なにたるをかしきこと、狂言に も、是非とも心底には仏法あるべしと思ふほどに、わが方に徳おほきなりと [云々]。 (300) 一、蓮如上人、権化の再誕といふこと、その証おほし、まへにこれをしるせ り。御詠歌に、「かたみには六字の御名をのこしおく なからんあとのかたみ ともなれ」と候ふ。弥陀の化身としられ候ふこと歴然たり。 P--1330 (301) 一、蓮如上人、細々御兄弟衆等に御足を御見せ候ふ。御わらぢの緒くひ入り、 きらりと御入り候ふ。かやうに京・田舎、御自身は御辛労候ひて、仏法を仰せ ひらかれ候ふよし仰せられ候ひしと[云々]。 (302) 一、おなじく仰せにいはく、悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねを せよと仰せられ候ふ[云々]。 (303) 一、蓮如上人御病中、大坂殿より御上洛のとき、明応八、二月十八日、さん ばの浄賢〔の〕処にて、前住上人(実如)へ対し御申しなされ候ふ。御一流の肝 要をば、『御文』にくはしくあそばしとどめられ候ふあひだ、いまは申しまぎ らかすものもあるまじく候ふ。この分をよくよく御心得あり、御門徒中へも仰 せつけられ候へと御遺言のよしに候ふ。しかれば前住上人(実如)の御安心も 『御文』のごとく、また諸国の御門徒も、『御文』のごとく信をえられよとの 支証のために、御判をなされ候ふことと[云々]。 P--1331 (304) 一、存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には「三心の字訓そ のほか、勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化 にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はか りがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物 をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。 (305) 一、註を御あらはし候ふこと、御自身の智解を御あらはし候はんがためにては なく候ふ。御詞を褒美のため、仰崇のためにて候ふと[云々]。 (306) 一、存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あ またのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦 の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻 めぐりめぐりて、いま臨終の夕べ、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。 (307) 一、陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 P--1332 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あ り。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とに かくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已・今・ 当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、 今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。 (308) 一、蓮如上人、御廊下を御とほり候ひて、紙切れのおちて候ひつるを御覧ぜら れ、仏法領の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候ふと [云々]。総じて紙の切れなんどのやうなる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へば、 あだに御沙汰なく候ふのよし、前住上人(実如)御物語り候ひき。 (309) 一、蓮如上人、近年仰せられ候ふ。御病中に仰せられ候ふこと、なにごとも 金言なり、心をとめて聞くべしと仰せられ候ふと[云々]。 (310) 一、御病中に慶聞をめして仰せられ候ふ。御身には不思議なることあるを、 P--1333 気をとりなほして仰せらるべきと仰せられ候ふと[云々]。 (311) 一、蓮如上人仰せられ候ふ。世間・仏法ともに、人はかろがろとしたるがよき と仰せられ候ふ。黙したるものを御きらひ候ふ。物を申さぬがわろきと仰せら れ候ふ。また微音に物を申すをわろしと仰せられ候ふと[云々]。 (312) 一、おなじく仰せにいはく、仏法と世体とは嗜みによると、対句に仰せられ 候ふ。また法門と庭の松とはいふにあがると、これも対句に仰せられ候ふと [云々]。 (313) 一、兼縁、堺にて、蓮如上人御存生のとき、背摺布を買得ありければ、蓮如上 人仰せられ候ふ。かやうの物はわが方にもあるものを、無用の買ひごとよと仰 せられ候ふ。兼縁、自物にてとりまうしたると答へまうし候ふところに、仰せ られ候ふ。それはわが物かと仰せられ候ふ。ことごとく仏物、如来・聖人(親 鸞)の御用にもるることはあるまじく候ふ。 P--1334 (314) 一、蓮如上人、兼縁に物を下され候ふを、冥加なきと御辞退候ひければ、仰せ られ候ふ。つかはされ候ふ物をば、ただ取りて信をよくとれ、信なくは冥加な きとて仏の物を受けぬやうなるも、それは曲もなきことなり。われするとおも ふかとよ、皆御用なり、なにごとか御用にもるることや候ふべきと仰せられ候 ふと[云々]。                            実如(御判) 蓮如上人御一代記聞書 末